都倉俊一
都倉ノートとは・・・?
音楽のことや、プライベイトなお話、時には時事ネタコラムまで、都倉俊一自身が日々を綴るBlog。

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2007.11.26 Monday
【おぴにおん】 都倉俊一の辛口ハーモニー(第11回・その2)

都倉俊一の辛口ハーモニー(第11回・その2)

辛口ハーモニーは1990−91年ごろに書いたコラムです。したがって今読むと何だかおかしい感じのするところもありますが、ご容赦を。
たとえばブッシュ大統領といえば今のブッシュの父親だし、湾岸戦争も今のイラク戦争とは違います。
しかし読んでゆくと今の情勢とまったくオーバーラップしてきます。
人間は歴史からあまり学ばないものですね。憲法問題も最近よく議論されますが、16年前はまだマスコミもそれほど取り上げない時代でした。

日本はこの15年でどのくらい変ったのか、日本の政治は、外交は?
それらを比べながら読むとかんがえさせられるものがあります。

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 言論の自由というのは一見、簡単に理解しやすいように見える。つまり何を言おうと人の勝手である%I考え方ある。それに比べて個人の権利≠ヘ文章上は理解できているように思えるが、個人の意識の希薄な社会の中ではなかなか実践は難しい。

 結果、実社会ではこの両者のバランスが崩れ、言うのは人の勝手≠フ方が暴走しやすい。時には非常に日本人的であるいじめ的性格≠煌轤覗かせる。

 それでは個人の権利≠ニいうものの対抗手段はというと、これがあまり実効的な方法が今の日本にはない。法律的手段を取ればいい、裁判に訴えればいいと言うものの、実際過去の例ではあまり効果がない。

 個人的な権利という認識が希薄な社会では裁判所と言えども例外ではない。その結果、たとえ個人の権利が侵されてもそのペナルティは驚くほど軽い。

 つまり個人の権利に対して、いくらの値段をつけて良いかは日本の裁判所ではまだ理解できていないのではないかと思う。

 この経済大国日本の中で、大手出版社に対してせいぜい数百万円の支払と、4分の1ページの謝罪広告程度のペナルティでは、抑止力にはなり得ない。結局、書き得≠ニいうことになってしまう。

 私がアメリカに住んでいた80年代のはじめに、中西部の出版社が、ある州議会議員のスキャンダルを書いた。しばらくしてそれが事実でないことが判明したが、その議員は次の選挙で落選してしまった。州立裁判所は、その議員の訴えによって出版社に対し、何と300億円の賠償を命じた。結局、その出版社は倒産してしまったのである。

 西洋民主主義のシステムが日本に取り入れられて40年以上経つが、日本人は未だにマニュアルを片手に勉強中のようである。

 証券業界の損失補てんも、リクルート事件のお礼≠焉A政治家に対する献金も、はたまた時によって法律違反になる冠婚葬祭のお金も、日本人にとってあまり罪悪感のあるものではない。まだまだ日本の社会では西洋的システムが古い日本の慣習の上で空回りをしている。

 今回の問題も表現の自由≠ニ同じように個人の権利≠守る実効的手段がない限り、また単なる興味本位の議論で終わってしまう。

<第11回・了>

2007.11.12 Monday
【おぴにおん】 都倉俊一の辛口ハーモニー(第11回・その1)

都倉俊一の辛口ハーモニー(第11回・その1)

辛口ハーモニーは1990−91年ごろに書いたコラムです。したがって今読むと何だかおかしい感じのするところもありますが、ご容赦を。
たとえばブッシュ大統領といえば今のブッシュの父親だし、湾岸戦争も今のイラク戦争とは違います。
しかし読んでゆくと今の情勢とまったくオーバーラップしてきます。
人間は歴史からあまり学ばないものですね。憲法問題も最近よく議論されますが、16年前はまだマスコミもそれほど取り上げない時代でした。

日本はこの15年でどのくらい変ったのか、日本の政治は、外交は?
それらを比べながら読むとかんがえさせられるものがあります。

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都倉俊一の辛口ハーモニー(第11回・その1)
「プライバシーの権利とは!?」
〜法で認められていても一体何が自由なのかを、
個々が再認識する必要がありそうだ〜

 最近、新興宗教の教祖と大手出版社の写真週刊誌との争いで、また言論の自由とプライバシーの問題がクローズアップされている。

 あらゆるメディアがこの両者の争いを面白おかしく取り上げているので、世間では興味津々とその成り行きを見守っているようだ。

 この出版社に対して、信者多数が抗議に押しかけるに到って、出版社側の言論の自由かペンの暴力か、また信者側の行動は正当な抗議か、言論に対する侵害かという問題にもなってきた。

 思えばこのような言論の自由とプライバシーの争いは、今さら新しく始まった問題ではない。過去にいくらでも似たような事例があり、時には和解が成立し、時には裁判で白黒が付けられた。

 しかし公平に見て多くの場合、その勝敗とは別に、プライバシーを書かれた側がはるかにダメージが大きいことは間違いない。出版社は時には謝罪文を掲載し、時には慰謝料を支払ってもそのダメージは比較的軽微である。そのおかげで出版社が潰れたなどということは聞いた事が無い。

 それに比べて個人の社会的ダメージは多くの場合、取り返しがつかない。度々和解が成立するのも、個人の争いが長引いてダメージがさらに大きくなるのを恐れての事が多いようだ。

 今回の新興宗教と出版社の争いで、マスコミでは議論百出の感があるが、私がここで感じるのはどちらが良いか悪いかではなく、相変わらず日本人の意識の中で、言論の自由と個人の権利というものが空回りしているな、ということである。

 これはその他多くの日本の社会制度の空回りと同根であり、西洋民主主義的な個人≠フ意識が無い社会にプライバシー∞権利≠ネどといくら言ってもそれは単なる文章に書いてある決まり事にすぎない。

 実際には家族意識∞ムラ意識∞集団思考≠フ強い日本人が西洋的個人∴モ識を持つには、まだ数世代かかると私は思う。それにもかかわらず、ルールは言論の自由であり、個人の権利なのである。

<次回へ続く>