都倉俊一
都倉ノートとは・・・?
音楽のことや、プライベイトなお話、時には時事ネタコラムまで、都倉俊一自身が日々を綴るBlog。

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2007.10.15 Monday
【おぴにおん】 都倉俊一の辛口ハーモニー(第10回・その2)

都倉俊一の辛口ハーモニー(第10回・その2)

辛口ハーモニーは1990−91年ごろに書いたコラムです。したがって今読むと何だかおかしい感じのするところもありますが、ご容赦を。
たとえばブッシュ大統領といえば今のブッシュの父親だし、湾岸戦争も今のイラク戦争とは違います。
しかし読んでゆくと今の情勢とまったくオーバーラップしてきます。
人間は歴史からあまり学ばないものですね。憲法問題も最近よく議論されますが、16年前はまだマスコミもそれほど取り上げない時代でした。

日本はこの15年でどのくらい変ったのか、日本の政治は、外交は?
それらを比べながら読むとかんがえさせられるものがあります。

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 第二次大戦前はパリ、ロンドンと並び称された花の都ベルリン。その中心のウンターデンリンデン大通りはパリのシャンゼリゼ大通と並んで、ヨーロッパの文化の中心地であった。その起点となるのが、ブランデンブルグ門。かの森鷗外もこのあたりをよく散歩したという。このブランデンブルグ門を、あの醜い灰色の壁が通っていた。

 私の同級生達も卒業後は皆、ベルリンを離れ、ドイツ中に散らばってしまった。それも仕方の無い事で、ベルリンはこれと言った産業も無いし、高校を出て大学に入るにしても、その後就職するにしても万事、西ドイツの方が都合が良い。
したがって、私がベルリンを訪ねてもかつての同級生は誰もいず、年取ったその両親達がいるだけであった。

 ベルリンの壁崩壊後のニュースを聞いて私の頭に浮かんだのは、まずこのクラスメート達の事であった。最近ではあまり連絡も取らなくなってきたが、果たして皆、どこでこの衝撃的なニュースを聞いているのだろうか。きっとそれぞれ、この私とはまた違った想いでこの悲劇的な60年代を思い出しているだろう。そんな思いを巡らせている私の所へ、一通のFAXが届いたのが‘91年の春であった。

   ブランデンブルグ≠フ下を手をつないでくぐる会
    1965年、アルント・ギムナジウム一年生同窓会
       時:1991年8月18日(日)

 私は仕事先のロンドンから8月17日にベルリンのラーグル空港に着いた。空港にはやはり、当時我が家で働いていた運転手のハインツ・ヴェーグナーが出迎えてくれた。

 ハインツの運転する車は東西緊張の象徴であった境界線チェックポイント・チャーリー$ユを通って東に入った。今や検問所は跡形もなく、大きな広場みたいな感じで残っているだけである。
 
 統一されたと言っても、まだ東ベルリンの復興は何一つ手が付けられていない。よくマスコミに登場した東ベルリンの象徴であり、社会主義の誇りとして紹介されてきたアレクサンダー・ブラッツの大通りを少し裏道に入っただけで、そこは全くの別世界、建物は恐ろしく汚くて古く、中にはまだベルリンの攻防戦の時の弾痕が壁に生々しく残っている建物もたくさんある。社会主義の虚飾の繁栄の裏でいかに人々が苦しめられていたかを思うと同時に、これからの統一ドイツの復興の困難さも想像できるのである。

 1991年8月18日の日曜日は朝方、雲が多かったが、昼頃には太陽も顔を出してくれた。

 約束の午後2時少し前に私は、ブランデンブルグ門へ着いた。少し胸をときめかせながら歩いて行くと、知った顔が見える。もうすっかり禿げ上がった頭のクリスチャンやマンフレット。おばさんになってしまったガービーやギーゾラー。しかし、その笑顔は25年前と同じであった。結局集まったのは8人である。ひとしきり思い出話に花が咲いた後、8人は並んで手をつないだ。

 マンフレットが1,2,3と声を掛け、我々はブランデンブルグ門を歩いてくぐった。彼らの顔も、私の心も実に晴々としていた。

<第10回・了>