都倉俊一
都倉ノートとは・・・?
音楽のことや、プライベイトなお話、時には時事ネタコラムまで、都倉俊一自身が日々を綴るBlog。

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2007.08.28 Tuesday
【おぴにおん】 都倉俊一の辛口ハ−モニ−(第9回 その1)

都倉俊一の辛口ハ−モニ−(第9回 その1)

 辛口ハーモニーは1990−91年ごろに書いたコラムです。したがって今読むと何だかおかしい感じのするところもありますが、ご容赦を。
たとえばブッシュ大統領といえば今のブッシュの父親だし、湾岸戦争も今のイラク戦争とは違います。
しかし読んでゆくと今の情勢とまったくオーバーラップしてきます。
人間は歴史からあまり学ばないものですね。憲法問題も最近よく議論されますが、16年前はまだマスコミもそれほど取り上げない時代でした。

日本はこの15年でどのくらい変ったのか、日本の政治は、外交は?
それらを比べながら読むとかんがえさせられるものがあります。

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「戦争が残した傷跡」

 〜日本の昭和史を振り返ったとき、
               我々は大きな矛盾に気がつかなければならない!〜
 
 湾岸戦争以来、中東に対する掃海艇の派遣やPKOなど、最近にわかに自衛隊に対して世間の注目が集まっているなか、私は市ヶ谷にある自衛隊を見学する機会があった。

 6万8730坪の広い敷地の中は緑も多く、東京の真ん中とは思えない趣を残している。

 この市ヶ谷の自衛隊の建物は色々な歴史的意味を持っている。そもそもは近衛連隊の本部が置かれ、戦争中は一時、大本営も置かれた。地下にある防空壕が当時を偲ばせる。昭和45年、総監室における三島由紀夫の切腹は衝撃的であった。

 しかし、何よりも日本の昭和史にとって重要なのは、ここの大講堂で昭和21年〜23年にかけて、極東軍事裁判が開かれた事である。

 日本が焦土と化し、飢え、明日を考えることも出来なかった頃、ここ市ヶ谷の大講堂で2年半に渡り、極東軍事裁判が開かれた。

 文字通り、日本が国際法の名の下に戦争犯罪者として裁かれたのである。敗者の姿は惨めであった。
判決の結果、多くの戦犯が処刑された。

 この裁判の是非については、専門家の間でもその意見が分かれるところである。戦後、機会あるたびに世界中の法学者からもこの裁判の国際法上の正当性に対して、疑問を投げかける意見が後を絶たない。

 いずれにしても、この裁判が一時代に幕を引くと共に今日の日本の出発点であった事に間違いない。

 ある意味ではこの市ヶ谷の大講堂は、昭和史にとって最も重要な建物であると言ってもいいのである。

 この建物が数年後に取り壊されるという。六本木の檜町にある本庁をここに移転するのに伴い、新しい高層ビルを建てるのだそうだ。これが実行されると、また一つ日本の近代史にとって重要な手がかりが失われることは言うまでも無い。

 今、ここで考えなければならないのは一つの建物だけの事ではない。日本人の昭和史というものに対する考え方なのである。

 我々は昭和史というものを正しく捕らえ、またそれを検証してきたであろうか。正確に事実を把握し、教育に活かして来たであろうか。これらの事を考えてみる上で、その起点となるのが極東軍事裁判であると私は思う。

<次回へ続く>

2007.08.17 Friday
【おぴにおん】 都倉俊一の辛口ハ−モニ−(第8回 その4)

都倉俊一の辛口ハ−モニ−(第8回 その4)

 辛口ハーモニーは1990−91年ごろに書いたコラムです。したがって今読むと何だかおかしい感じのするところもありますが、ご容赦を。
たとえばブッシュ大統領といえば今のブッシュの父親だし、湾岸戦争も今のイラク戦争とは違います。
しかし読んでゆくと今の情勢とまったくオーバーラップしてきます。
人間は歴史からあまり学ばないものですね。憲法問題も最近よく議論されますが、16年前はまだマスコミもそれほど取り上げない時代でした。

日本はこの15年でどのくらい変ったのか、日本の政治は、外交は?
それらを比べながら読むとかんがえさせられるものがあります。

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 先日もナチスドイツ占領下のポーランドでの出来事が紹介されていた。ポーランドと言えば悪名高いのがワルシャワに作られたユダヤ人ゲットー、いわゆる「ワルソー・ゲットー」である。百人以上のユダヤ人がここで隔離され、殺された。
しかし今回放送されたのは、ここの話ではなく、ロッツ(LODZ)という街での出来事である。

 この街、当時ドイツ名で「リッツマンシュタット」と呼ばれ、20万人が住んでいた。

 1943年3月、この街はナチスに占領され、即座にユダヤ人、ポーランド人絶滅政策が実施された。

 まず実行されたのが、労働力にならない6歳以下、60歳以上を殺すことである。親衛隊が住宅に入り込み、泣き叫ぶ母親を振り切りながら、幼児や乳児をビルの窓から放り投げる。老人は見つかれば、すぐに射殺である。生き残った人々の様々な証言が紹介された。

 次に流された実写フィルムと音声がさらに衝撃的である。このロッツの市長の市民に対する放送である。

 この市長は占領軍司令官より処刑する2万4千人のリストを提出しろと、命令される。これも幼児、老人である。彼は命がけで懇願する。その結果、2万4千人を2万人にしてもらう。そのことを市民に放送で訴えるのである。

 つまり、これ以上はどうしようもない。「私の人生で最も辛い事を皆さんに言わなければならない。お願いです。子供と老人を出して下さい。2万人の命で20万人が救われるのです。」

 まさに狂気の演説である。結果として戦争が終わった時、人口20万のロッツ市の生存者は800人だったのである。

 このような事は事実46年前に起こったのである。その当時を知る人が生存している間、このような記憶は決して薄れることは無いであろう。

 ドイツが統一され、首都がベルリンに戻る。この事を私のように感傷的に受け止めている人間ばかりではない。あの悪夢とオーバーラップして、このニュースを受け止めた人がまだ世界には大勢いる。このような人が生きている限り、ドイツの背負っている十字架は軽くはならない。

 しかしそれにもかかわらず、統一ドイツは一歩一歩前進して行くのである。経済大国としてさらにたくましさを感ずるくらいである。

 それに比べると、我が国の戦後処理には大いなる疑問が横たわる。

 世界の二大経済大国になった日独両国。しかし、その歩んできた戦後の道はあまりにも違う。今、歴史の大きな転換期にあってわが国は、ドイツに比べてやり残してきた事はないのか。真剣に考えなければならない時なのである。

<第8回・了>

2007.08.10 Friday
【Diary】 阿久 悠 先生  追悼

 38年の付き合いの中で阿久さんと僕とが言葉で何かを約束したり確認したりした記憶はあまり無い。

言葉の達人である阿久さんも、日常会話に関してはいたって言葉が少ない、と言うよりは人間関係に関しては以心伝心の人であった。数多い阿久・都倉コンビの作品で、その曲が出来上がった時、あるいはヒットした時でも阿久さんが「よかったね!」とか「やった、やった」などと騒いでいた記憶はほとんど無い。78年にピンク・レディーの「UFO」でレコード大賞を取ったときでも、僕の肩を突然“ポン”と叩き後ろを振り向くと阿久さんが口をへの字に結んだまま何にも言わず何回もうなずいていた。その眼だけが輝いていた。 

 僕が阿久さんに初めて出会ったのはまだ大学の三年生の時であった。あるレコード会社のプロデューサーから依頼され、伊豆で合宿をしながら二人で20曲ばかり書いた。この合宿で問題が一つあった。阿久さんは一日の睡眠時間が4時間で足りる人であったが僕は10時間寝ないと役に立たない。効率的な創作は不可能である。結局この20曲からはヒットは一曲も出なかった。しかしこの合宿で二人の間にその後30年以上続く友情を築くことができたと僕は今でも思っている。二人で色々な話をした。歳は一回り違うが話の共通点は多かった。ビートルズからハリウッド映画、はたまた日露戦争と乃木将軍まで話は尽きなかった。打ち解けてゆく中でまだ学生だった僕は、果たして作曲家として食べてゆけるか等の不安を打ち明けたものである。その一年後に私が大学を卒業した時、自宅に大きな包みが届いた。送り主は阿久悠、中を開けるとそこには僕の名前入りのスコアが5千枚入っていた。その時僕は阿久さんが無言で僕の肩を“ポン”と叩き「都倉ちゃん、大丈夫。君は十分作曲家としてやって行けるよ」という暗黙のメッセージを込めてくれているような気がした。しかしその後もそんな励ましを阿久さんから言葉で言われたことは一度もない。 

 阿久悠という人は五千曲の詞を書き、何百人というスターを世に送り出した。レコード売り上げを始めとするあらゆる記録を塗り替えた昭和の大作詞家も夢を語る時は少年に戻る。自分の好きだった昔のハリウッドスターの話や、憧れだった野球選手の話。それがプロゴルファーや甲子園の高校球児だったりすることもある。彼はそれらを大事に自分の大きなオモチャ箱にしまっておくのである。時々その中から何かを取り出しては仲間に見せて驚かすのが楽しみだったようだ。その中から「勝手にしやがれ」や「サウスポー」「モンスター」などが飛び出してきた。


 「スターはいつも輝いていなければいけない」といつも言っていた阿久さん。あなたの光でいったい幾つの星が輝いたことか。スターだけではない。その回りのスタッフも我々友人も、いつもあなたからの光を受けていた。その光は眩しすぎず時には照らされていることにも気づかない時もあったが、その光が無くなって我々は今暗闇にいる。
そう阿久さん、あなたは太陽だった。(合掌)
 
<朝日新聞 8月4日 朝刊 掲載>

2007.08.03 Friday
【おぴにおん】 都倉俊一の辛口ハ−モニ−(第8回 その3)

都倉俊一の辛口ハ−モニ−(第8回 その3)

 辛口ハーモニーは1990−91年ごろに書いたコラムです。したがって今読むと何だかおかしい感じのするところもありますが、ご容赦を。
たとえばブッシュ大統領といえば今のブッシュの父親だし、湾岸戦争も今のイラク戦争とは違います。
しかし読んでゆくと今の情勢とまったくオーバーラップしてきます。
人間は歴史からあまり学ばないものですね。憲法問題も最近よく議論されますが、16年前はまだマスコミもそれほど取り上げない時代でした。

日本はこの15年でどのくらい変ったのか、日本の政治は、外交は?
それらを比べながら読むとかんがえさせられるものがあります。

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私が通っていたベルリンの高校も社会科の見学、歴史授業の一環として時々、ナチス時代の映画を見せた。

 特に私の印象に強く残っているのがアウシュビッツ収容所≠ニいう実写フィルムであった。

 ポーランドのユダヤ人強制収容所、アウシュビッツの何とも言いようのない、残酷な記録フィルムであった。何万という人間が餓死し、ガス室で殺され、子供が医学実験に利用された。収容所長のテーブルクロスはユダヤ人の皮膚で作られ、カーペットは髪で編まれたのである。

 こう言うフィルムを高校の社会見学で見せるドイツの教育は日本人には理解し難いかもしれない。しかし彼らはこの現実を認め、その上で新しい一歩を踏み出す。その考え方の根底には、「今のドイツとは違う、あれはヒトラーの狂気によって引き起こされた悲劇なのである。今のドイツは新しいドイツだ」という考え方が強く流れており、教育にも徹底している。

 ドイツがもしこのような態度を取らずに、クサイ物にフタをするようなことをしたら、それこそ彼らは永遠に国際社会の一員として、認められることはなかったであろう。

 しかしまだまだ人々、特にヨーロッパ諸国の記憶からはナチスドイツの思い出は消えていないようだ。

 イギリスでは今日もなお、週に一回、BBC放送があの時を忘れるな≠ニいう番組を流している。
当然あの時とはナチスドイツと戦っていた頃のことである。

 やや、イギリス人特有の時代錯誤的印象派否めないが、彼らの「今日の英・独関係は別として、(‘92年にはECの中で統合しようとしているのだから)過去にこういうことがあったという事は忘れるべきではない」というのである。

 それも一理ある。しかし、やられているドイツ人の心情も察するに余りある。しかも、こういう事が新しく次々に登場する。
<次回へ続く>