都倉俊一
都倉ノートとは・・・?
音楽のことや、プライベイトなお話、時には時事ネタコラムまで、都倉俊一自身が日々を綴るBlog。

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2007.07.20 Friday
【おぴにおん】 都倉俊一の辛口ハ−モニ−(第8回 その2)

 都倉俊一の辛口ハ−モニ−(第8回 その2)

 辛口ハーモニーは1990−91年ごろに書いたコラムです。したがって今読むと何だかおかしい感じのするところもありますが、ご容赦を。
たとえばブッシュ大統領といえば今のブッシュの父親だし、湾岸戦争も今のイラク戦争とは違います。
しかし読んでゆくと今の情勢とまったくオーバーラップしてきます。
人間は歴史からあまり学ばないものですね。憲法問題も最近よく議論されますが、16年前はまだマスコミもそれほど取り上げない時代でした。

日本はこの15年でどのくらい変ったのか、日本の政治は、外交は?
それらを比べながら読むとかんがえさせられるものがあります。

************************************************************

戦後45年以上も経った今日において、ユダヤ人組織をはじめとしてドイツの戦争犯罪に対する攻撃の手は決して緩む事が無い。

 欧米各国も事あるごとに、ナチスドイツ時代の悪業を彷彿させ、人類に対する大罪として糾弾してきたのである。

 ドイツは戦後を通じて、常にこの非難に直面しながら進んできた。そして自らその屈辱の中で懺悔し、悔い改めながら国際社会と共存してきたのである。

 同じ敗戦国として、この点が我が国と大いに違う。我が国も、我が国なりに極東軍軍事裁判以来、世界の非難を受けてきた。しかしそれはドイツのそれとは比べ物にならない。

 これには様々な理由があるであろう。確かにナチスの非道は他に例を見ないほど、残忍であった。また、戦勝国側から見れば、同じ歴史、文化的伝統を共有するものの行為として、許しがたかったということもあったであろう。

 今日、東側の崩壊とともにかつてナチスドイツの占領下であった東欧諸国が自由主義陣営に入ってくるとともに、ますますさらに如実な歴史的事実が明るみに出されるかもしれない。しかしこれは、ドイツ国民が一生、背負っていかなければならない十字架なのである。

 事実ドイツ国民は、戦後これを直視しながら生活してきた。

<次回へ続く>

2007.07.06 Friday
【おぴにおん】 都倉俊一の辛口ハ−モニ−(第8回 その1)

都倉俊一の辛口ハ−モニ−(第8回 その1)

 辛口ハーモニーは1990−91年ごろに書いたコラムです。したがって今読むと何だかおかしい感じのするところもありますが、ご容赦を。
たとえばブッシュ大統領といえば今のブッシュの父親だし、湾岸戦争も今のイラク戦争とは違います。
しかし読んでゆくと今の情勢とまったくオーバーラップしてきます。
人間は歴史からあまり学ばないものですね。憲法問題も最近よく議論されますが、16年前はまだマスコミもそれほど取り上げない時代でした。

日本はこの15年でどのくらい変ったのか、日本の政治は、外交は?
それらを比べながら読むとかんがえさせられるものがあります。

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都倉俊一の辛口ハーモニー(8)「ドイツ統一で感じたこと」(その1)

 〜第二次大戦後、半世紀近く経とうとしているが、
              日本はその傷跡をうまく処理できたか!?〜


 ドイツ連邦議会は‘91年6月21日、ベルリンをドイツの統一後の首都と決めた。今後10年かけてボンからベルリンへの首都機能の移転を行う。ナチスドイツ崩壊から46年ぶりのことである。

 私は小学生時代をボンで、また高校生時代をベルリンで過ごした。この首都移転はひとしおの感慨がある。そして今さらながら、ドイツ国民がこの戦後45年、歩んできた苦難の道程を思わずにはいられない。

 1949年、ドイツ連邦共和国(西独)が成立、その臨時首都をボンにおいた。ドイツの連邦基本法(憲法)にもあるとおり、統一ドイツの首都はベルリンであり、ボンはあくまでテンポラリーな首都であった。それがこの度の連邦議会で実証された形となった。

 私が父の任地であるライン河畔にある、ボンに移り住んだのは、1955年の夏であった。

 まわりの小さな町々を合わせても人口30万足らずの眠ったような街であった。ドイツ人は当時、ボンの事を首都(Haupt-Stadt)ではなく、首村(Haupt-Dorf)であると、皮肉っていたものである。

 しかし中世以来、ボンは大学都市として知られ、ベートーヴェンの生地として観光客を集め、45年間、西ドイツの首都として機能してきたのである。それが突然、首都という称号を取り去られ、元の眠ったようなライン河畔の小都市に戻れと、言われているのである。ボン市民の胸中は複雑であるに違いない。

 ベルリンもまた戦後、複雑な歴史を歩んできた。東西の冷戦の象徴のように分断されて、30年近くも市民は引き裂かれ、家族や友人達は離ればなれの生活を余儀なくされてきたのである。

 私が高校生活を送った60年代の前半はその冷戦のピークであり、毎日のように東から西と壁を越えて逃亡する人が後を断たず、数々の悲劇的な事件が起こっていた。

 とにかく、1961年8月、ある日突然にベルリン市のド真ん中にソ連軍、東独軍の戦車出動し、壁を構築し始めた。その日もいつも通り、その壁が作られていた場所を通って午前中に東ベルリン地区へ出勤したり、通学、買い物に行っていた市民は、そのままそれ以来、十数年帰れず、という信じられない出来事が起こったのである。文字通り家族、兄弟、夫婦が壁により引き裂かれた。

 当時、私の通っていた高校では、毎月、オストパケートなるものを東側に送っていた。これは「東への荷物」という意味で、我が学校でも兄弟、親戚が数多く東へ取り残されていたため、彼らに当時から東側では不足している日用雑貨を送るのである。あまり高価な物や質の良い物は境界で東側の兵に抜き取られるという事で、贈り物は自然粗末な物に限られていた。それでも彼らから来る感謝の手紙を見ると、それらの雑貨類は大いに役立ったようである。

 このように、東西冷戦の犠牲になったようなドイツは、もう一つナチスドイツの亡霊という悪夢と戦わなければならなかった。

<次回へ続く>