
都倉ノートとは・・・?
音楽のことや、プライベイトなお話、時には時事ネタコラムまで、都倉俊一自身が日々を綴るBlog。
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前回、無抵抗なオジサンたちのことを少し書いたが、特に専門がクリエイティブな組織では新鮮な若い感覚が大事にされオジサン達は押され気味になる。彼らも自分の組織内の立場を維持するため若者に理解のある上司になり若者のやる事を理解することが組織の上に立つ者の条件となる。もっと言えば若い部下のやることに口を出さないことが上司の役目になって行った。少子化がここまで進むと社会全体にこの傾向が見られるようになる。何といっても若者が足りなくてオジサン達は余ってくるのである。貴重な若者に気に入られることが自分の立場を確保する方法でもある。
「若い女性が子供を産まない」となると、すぐ「産める社会的条件の整備、経済援助」となる。整備は必要である、しかし本来人間の本能である「子供を作りたい」という願望がなければどうしようもない。果たして今の日本女性にその願望がどのくらいあるのか。そしてマスコミが持ち上げるキャリア女性、行政の謳い上げる男女雇用平等、女性の社会参画等、まるで家庭の専業主婦は無能な時代遅れな選択ともいわんばかりだ。まだ女性の自立の歴史の浅いわが国で、「その上子供を産めですって、それは無理」という声が聞こえてきそうだ。「優先順位が逆なんですけど・・」という声はかき消されそうである。
ニート対策で先日行政から「仕事が長続きしない若者は人間関係がうまく行かないから」という発表があった。対策として「何とか職場で人間関係がうまく行く方法を指導したい」ということだ。人間関係に耐える教育を受けてこなかった若者が社会に出てゆくと、社会が彼らに合わせてあげなければならない。これも逆じゃないですか?
【神戸新聞 2006年3月30日(木) 「随想」掲載 全7回シリーズ】
終戦後の連合軍最高司令官マッカーサーは「日本人は12歳」といった。「皆いつもニコニコ笑っている。受け答えやしぐさはまるで12歳の子供のようだ」と感じたそうだ。
独特の文化的背景がある日本人の立ち振る舞いは外人にはなかなか理解できないが、最近の日本を見ていると社会がより幼稚化しているようにも思う。メディアがこぞって囃したてる若者文化。若者の音楽、若者の食べ物、若者のファッション、若者の町など、そこには若者の好みだけが絶対のような風潮がある。オジサン、オバサンたちはそれに抵抗するつもりはさらさらないらしい。テレビを見ているとまるで若者の独占状態である。たとえばお笑いである。アラン・ストックウェルというイギリスの作家は「ユーモアいうものは古今東西常に人種的、階級的、知識的そして年齢的な差がある文化であって、すべての人が共通に笑えるコメディーは存在しない」と言っている。だからこそ世の中には多種多様なユーモアが必要である。
日本のテレビの「お笑い」は何故ターゲットをこうも低年齢化するのか。今いろんな番組を見ていて大人が笑えるユーモアがどのくらいあるであろうか。もちろん芸人も若い。公開番組で聞いている聴衆も幼い。昔から「箸が転げてもおかしい年ごろ」と言うが、何にでも笑いたい年齢である。大人から見れば幼稚なジョークに拍手喝采。勿論番組を作っているスタッフも若い。テレビの番組はこれらの企画の占領状態である。私の知人のプロデューサーは「今やテレビは若者のオモチャ箱ですから」とさりげなく言う。オジサンたちは抵抗する気もないらしい。このままでは日本人の情緒も12歳になってしまう。
【神戸新聞 2006年3月14日(火) 「随想」掲載 全7回シリーズ】
「日本は恥の文化である」ことはルース・ベネディクトをはじめとする日本文化研究家の言を待たずとも明らかである。「恥」とは相対的なものである。集団生活の中で誰かに対し「恥ずかしさ」を感じ「恥をかく」わけで、逆に失敗を人に知られなければ「恥隠る」ことでホッとする。またじぶんの所属する集団生活の上に成り立ってきたわけで、人前で「恥をかく」ということは己の失敗を「恥入る」ことであり社会生活の和を保つため「こういう事は恥ずかしい事である」というルールを教育されてきた。
そう言う教育がなくなり、中途半端に「個」をもてはやし、社会の協調というものを軽んじる教育がなされると、たとえ自分の失敗だとしても「恥を知れ」とたしなめられれば、プライドが傷つき、「恥ずかしめ」を受けたと逆切れする若者が増えてゆく。単なる「個」のわがままである。
深層心理のどこかでムラ社会の中に埋没するかもしれない弱い自分を恐れているのかもしれない。埋没するのは「恥」だから逆に大声で唄(うた)い自己主張をする。しかしその歌は誰ともハーモニーとしては響かない。
日本の生きる道であった「群れて強調する」ことの中で最近「群れる」だけがやたら目につく。そこには「恥ずかしさは弱さ」みたいな心理が見えかくれする。一月の成人式で傍若無人に振舞う若者達も群れなければ1人では行動できない弱さがある。コーラスをした人は必ず経験する事だが、自分の声を抑え周りに溶け込むような発音を心掛けるのが良いハーモニーを奏でるコツである。一度その時に至福の感覚を体験してもらいたいものだ。
【神戸新聞 2006年2月27日(月) 「随想」掲載 全7回シリーズ】
学校教育の場であまり歌を唄わなくなったという記事を読んだ。国家を歌わない学校があるくらいだから驚く事もないのかも知れない。私も日本全国、色々な所の校歌、市の歌、県の歌、を作って来たが、それぞれの地域の伝統やその学校の歴史、教育、哲学などを知る機会を得て大変興味深かった。
高度経済成長のころ、毎朝全員で歌っている光景が紹介され日本企業のチームワークの象徴として世界的に有名だった社歌も最近はあまり歌わなくなったそうだ。終身雇用の崩壊、リストラ社会で会社に対する愛情も薄れ、その会社の歌を唄わなくなるのも理解できる。
しかし、皆で「群れる」と言うことではなく同じ目的に向かって進む仲間意識を高めるために一緒に歌を唄う行為は、それなりの理由がある。それは皆で歌を唄う時の高揚感でありそれにより生じる一体感である。詩の内容も曲調も多くの場合そう言うふうに出来ている。
普段言えないような事も照れくさい事も歌にすれば自然と出てくるし、皆で唄えばより説得力を増す。その意味で校歌、寮歌、社歌、県歌等はそれなりに役割を果たして来たように思う。しかし何よりも増して日本人にとって大切な「和」が生まれる。これは日本人に限ったことではなく外国でも幾らでも例がある。種々雑多な人種を抱えた国でも一緒に国家を唄う事で連帯感が生まれる。初めて会った人たちとキャンプファイヤーを囲んで唄う歌からも友情が生まれる。
私は「海ゆかば」という曲が大好きである。しかしこの歌は戦争の想い出が悲しすぎて使われないそうである。私は海上保安庁の海の葬送歌「君は帰る母なる海へ」を作らせてもらった。灯台の日にこの歌を遺族とともにみんなで唄った。皆目に涙をためていた。
【神戸新聞 2006年2月10日(金) 「随想」掲載 全7回シリーズ】